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 ♪かるごとうなぎのふたりごと♪



2001/12/13

 泣きたいときに

帰り道、たまに、泣けるようななにかきっかけがほしいな、って思う。唐突にね。
探すけど、見つからないときが多い。
本でも、なんでもいいのだけど、見つからなくて、それがまた悲しい。

けど、そうすると不思議なことに、家へ帰りつくと、とてもうれしいことが待っていたりする。心がほかほか落ち着いてしまうようなうれしいことが。

たとえば、今日。
雨上がりの夜で冷たくて、一歩歩くごとに、ほんとうになにがなんだかわからない気持ちがぽっかり広がりつつあって、さみしくて、かなしくて、泣きたくなってしまった。

ところが。
帰って食卓の上の手紙を見たら、海外からのお便り2通。
フィンランドからとアイルランドから。クリスマスのおたよりだった。


泣きたいとき。
そういううれしいことがきっかけになって、泣けてしまうこともある。
かじかんで帰ってきたときに、あったかいおうちの空気にふれて、芯まで凍りついていたのがとけていくときみたい――。
その安堵で、涙がほろっと。
忘れられていないんだ、って、ほろっと。
自分はとっても忘れっぽいというのに。

人は人に忘れられたくないものなんだ。
ありがとう。ありがとう。

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2001/11/15

 泣かないひと

泣かないひと、と思っていた。
あんまり泣かない、っていう程度に「そのとおり」なんだけど。

わけもなく泣きたくなることはあっても、実際に泣いてしまうことはあまりない。
偏った負けず嫌いのせいで、悔し泣きをしたことのほうが多いかもしれない。
かなし泣きは……そのときには泣かずじまいになることが多い。
自分の力で泣けなくて、テレビを見て――映画を見て――漫画をよんで――本を読んで、泣いてしまうことが。
よかったね、よかったね、とうれし泣きっぽいこともある。

でも、たまに――ほんとにたまに、泣いてしまうことがある。
めったにないことだけれども、なぜだかわけもなく、ただ悲しくて悲しくて泣いてしまう、ということがある。
自分でも信じられなくって、信じられないと頭のどこかで考えながら、ぼろぼろ泣く。

なんでかな。

そういう夜は、せめてハッピーエンドのお話でも読んで、一日をおしまいにする。
涙が止まったら、「終わりよければすべてよし」のために。


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2001/10/27

 恋する気持ち

つやっぽいタイトルだが、残念ながら。。。。ちょっと違う「恋」の話。

『追っかけおばさん、ロンドンへ』という本を読んだせいなのだ。
この“おばさん”は、イギリス屈指の超ロングラン・
アイドル、クリフ・リチャードというシンガーの大ファンで、とうとうイギリスコンサートへ「追っかけ」 をしにいくのである。
そりゃもう夢中である。
経歴もなかなかすごい。14歳で彼に出会い、彼のファンへの願いを全うすべく16歳でクリスチャンになり……現在は牧師夫人。
まぁ、それだけでもじゅうぶんにおもしろいのだけれども、彼女の追っかけぶりの記録がとてもおかしい。なりふりかまわず飛び出していく姿、また実行に至るまでの“家庭内外の情況”、到着してからの一ファンのただならぬ思いと行動、ファンだからこそのコンサート報告、こきおろし方もほめ方もツボにはまる――どれもこれもユーモア(ねらってるわけではないところが、またすばらしい)に満ちていて、楽しい。
ところどころに出てくるイギリス留学時代の友人で、18年以上も文通している「彼」とのやりとりもおもしろいし、ほとんど出てこない夫君の牧師どのは、いったいどのような方なのか、というのも気になる……。

けれども、ただ楽しい、だけで終わる本ではなかった。クリフ・リチャードは話の中心であるし、それに向かっていくおばさんの姿が見えるわけだけど、そこから――彼女の凝縮された人生を感じることまでできてしまう。
50代のこの方は、なるほどほんとに、「成長した人」なのだ。
ひとことでいえば、「大人だなあ」と思ったのだ。

また、あらゆるエネルギーをクリフにそそぎながら生きている姿から、
「なりふりかまわず」とか「没頭する」ということを自分は経験していない、とつくづく思い知らされてしまった。彼女がそうできるのは、14歳に始まるクリフへの“愛情”があるからで、また同時に日本での日常があるから――その相乗効果なのかもしれないけれども。

なんであれ、エネルギーを傾ける生き方は「できる・できない」ではなく、結果としてそうなる、という気がする。

これまでも、自分は世の中の半分も見ていない、と感じることは多かったけれど、この人の本を読んでまた実感してしまった。

恋する気持ち…………懐かしんでちゃいけないね。


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2001/09/02

 カタチから気分

 先日、チェンバロのレッスンのときに、なんとなく――ちょっと気に入っているまっしろのブラウスなんぞを着てみようと思い立った。かるごわーるどのほうで書いたけれども、それは、少しでもバロック気分を演出したくて、だった。
 そのまっしろなブラウスは、どういうふうにもバロックバロックしているわけではないのだが、なんとなくお気に入りのデザインである。ふだん使いのものとはまた違う、「しろいブラウス」でもある。 そういった特別なものを着るという気分が、バロックのために向けられた。
 
  チェンバロのおけいこも、気づけば5年くらい経つ。だからといって、めざましく上達しているわけではない。単に弾いてみたい、というところからやっと一段くらいは進歩したかもしれない。自分の無知ゆえに、そして想像力貧困のゆえに起きるレッスン中の愕然が、より多くなったから――つまり、「ただ楽しい」だけではなくなっている。ときには「ただ弾くだけの自分の表現のつまらなさ、至らなさ」に悔しい思いをするのだが、もちろん、プロを目指しているわけではないから、その悔しさのレベルはお恥ずかしい限り。それでも壁には違いなかった。

 8月はレッスンの間隔も空いてしまったのだけれど、それはかえってよかったのかもしれない。
ただ弾いているだけでなにも読めない、見えないという生意気な悩みにぶちあたっていたのが、突然、あの時代の音に触れたくて始めたことだったよな、と初心に立ち返ったのだ。まっしろいブラウスを取り出して着て、多少なりとも雰囲気を出してみよう、と。
 結果自体はちっとも満足いくものではなかったけれど、こういうカタチから入ることも気分転換になるのだと知った。どんな服装でも、演奏の心があれば伝わるもの――とは思う。が、相乗効果も生み出すかもしれない。

  わたしは時々、演奏会のアーティストの姿を見て、あまりに華美な衣装や、シンプルすぎる衣装に対して、不満を覚えていた。が、それはわたしのイメージの押し付けであって、実現不可能な思い込みでもある。前もって言い含めるならともかく、当日行って文句を言うのは実にたやすい。
むしろ、その人の思いを汲み取ろうとする気持ちが、こちらに必要なのだ。

 かるごにとって、チェンバロレッスンは気持ちだけではじめたことだった。相変わらず自分の解釈で演奏できるほど、「非常に没頭」なんてこともしていない。いつになったらそうなれるだろうか? その日まで、と思っているわけでもないのだけれども、今は続けていきたいと思う。

それが、チェンバロ、あるいは芸術の魔力なのだろう。



2001/08/15

 「ありがとう」

かるごは「ありがとう」が好きなのだな。

先日、友人に贈るえほん描いてて、そうか、昔から基本は 「ありがとう」だったか、と発見した。
自分の描くもののパターンというのがあって、どれも元を正せば、 「ありがとうを言いたくて」というところからできあがっている。 贈りたい相手はそれぞれ違うけれども。
なにかを創り出すきっかけは、それだろう――て。

学生時代だった1990年代はじめあたり、あの頃描いたものを、今リライトしていることでいろいろ 冷静に振り返れる。まぁ、ちょっと照れくさい、というか恥ずかしいが。 12,3年くらい前のわたしって、「ありがとう」の言えない人間だったと思う。 けど、それは感謝の気持ちをもてない人間、ではなくて、単にひねくれて いて、素直に口にできなかった、ということだったみたい。
「ありがとう」を言いたくて、人に贈るものを創っていたのだ。

たぶん――だれだって、「ありがとう」ということを感じて生きている、きっと。
そう言えるか、言えないかというだけの違いかも。


自分自身は、どこから?どんなふうに?きちんと素直に「ありがとう」って言えるように なったのか、よくわからないけれども……。
今、さかんに「ありがとう」を振りまいているのは、決して安売りではない。
ほんとにそう感じるから、言いたくてたまらなくなってしまう。
たとえば、すてきな友達、いいお酒、楽しい時間……そういうのが得られると、 ついついうれしくなって、じまんしたくなったりする。 共有した人にはもちろん、神さまにも、みんなにも(バカみたいだけど) ありがとうを言いたくなる。
別に不幸な人間関係の中で生きてきたのではないのだけど…… なんだろう。(^^;;)。

付き合いの長さは関係ない。長いひとは長いなりの意味があり、その時機にかなって出会ったたくさんの人がいる。
「あのとき」でなければ出会えなかった人、「今」でなければ出会えなかった人……いろいろ。あとでどんなふうに――未来永劫ずっと仲良しでいられる保証は、今はどこにもないから――なろうとも、「そのとき」出会えたことは、ほんとうにありがたく、うれしいこと。それは、忘れたくないな。
だから、カタチに、なにかカタチに残したくなるのだ。

――ほんとにね。
たとえば、「かるごわーるど」を通して、さらにたくさんの「ありがとう」に遭遇した。
これからもそうだろう。

かるごはやっぱり 「ありがとう」が好きだな。
だから、ここであらためて言っておこう。

「ありがとう」――ってね 。


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2001/07/06

 宇宙の中の自分

 ある日、ハーンは自分のアドレスの長さを何気なさそうに言った。「アショー校、ダラム、イングランド、ヨーロッパ、東半球、地球、宇宙、神界」だと。
            
(『聖霊の島―ラフカディオ・ハーンの生涯』工藤美代子・集英社より)

この一文に当たったとき、似たようなことを言うのが流行った時期があったのを思い出した。
「宇宙の中の地球の中の日本の中の神奈川県の中の大和市の中の……」
松本零二のアニメの影響も少なからずあったに違いないが、とにかく宇宙ということばを使いたがった。

でも――これは、ハーンとは逆だ。
ハーンは現地点から「神界」まで昇っていくのだ。点からはじまり、おおきく弧を描き、螺旋階段のように円錐を広げていく。
宇宙に向かって。

自分を放出することを、どれだけ本気で考えてきたことがあるだろう?

宇宙から自分に降りてくるまでの間に、大気圏に耐えて生き抜いた小さな存在のように思うことも大事なことだ。
自分を微小と知り、いとおしく思うことは。
しかし、地上の自分の立つ一点、そこからあてどなく放出されるようなエネルギーをもって空を見上げたことはあるだろうか?
自己実現、といいながら、自分の心を広い世界へ投げかけたことがあるだろうか?
繰り返し繰り返し、懲りずにあきらめずに、あるいは、もてあまし気味でさえある勢いをもって。

ふと連想して考えさせられた、気になる一文。

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2001/06/16

 日記

たまに書き付ける小さなメモノートが終わりそうになっている。
このごろ、ほんものの日記(わーるどの「つぶやき」ではなく)を書くのが億劫になっているから(夜は書き終えられずに眠ってしまうことが多い)、持ち歩いているもの。
キーワードを残しておくことも大事だから、思い出したときに書き留められるよう、メモを持ち歩くことにしたってわけ。

「つぶやき」に書いてあることは、かなりふつうにあたりまえの「恵寿かるご」の日々の記録。たしかにそうではあるのだけど、やはり全部ありのままというわけではない。それでも、知っている人に言わせれば「結構ありのままに日常」らしく、あんなになんでもかんでも書いて大丈夫か?と心配されることもある。
が、いったい、あれでどんなことが起きるというのだろう?
他人の日々の行動記録なんて、あるいは思考記録なんて退屈だと思う人間だっているし。
おまけに、あれはやっぱり、かるごの部分ではあるが全部ではないのだ。悲しい気分やつらい気分のときには、書いて消化するのが好きだけれども、「つぶやき」には書けないことも多い。逆にうれしいことも、ほんとはいちいち報告したいけれど、書ききれない。
だから別に赤裸々だとも思っていないのだけど、そうでもないのかな???

ま、それはともかく。
もちろん、ほんものの日記で書くとなると、全部を書こうと思う。けれども、追いつかない。次から次へとあふれてきてしまい、言葉が追いつかない。だいたい眠くなってしまうし。
時々はがゆい。


スピードを優先させるならこうやってタイピングして日記を書けばいいのでは? ワードや何かで文書管理して?
そう思ったこともあったけど、だめ。
活字になるってことがだめなのね。かっこつけてしまうし、言葉をすごく選んでしまい、どこか嘘っぽくなってしまう。活字表現はあくまで、かるごにとっては、凝縮されるべき世界なんだな。
たとえば、小さなノートを開いてみると、しょうもないことがいっぱい書き留められている。そっちのほうが心にしみることがある。あまりにも自分臭くて笑ってしまうこともある。
けれども、これが「ありのままのかるごの日記」の断片。 これを活字でメモにしようとしたら、同じ気持ちでは書けないし、よしんば書けたとしても同じ気持ちに戻っては読めなさそうだ。
自分でさえも。

メールではいろんなことをまじまじ語るときに、そんなふうには思わないのだけど(それは言葉を選んで書くもの、と決めているからかもしれない)。
自分ひとりの世界では、活字は気恥ずかしい。

活字への思いは、「本」というアナログ媒体への憧れと、根本で通じているよう。
かるごにとっては、「活字」は特別。どんなにしょうもない文章であっても、活字になったときには凝縮されていなければならない。そして、受け手によって解放されてもらわなければならない。
どこかで、そんなことを思っているようだね。

でも、まだまだまだまだ、そんな文章を書くことはできていない。
だから、まだ当分、日記は活字にはできそうにない。

どうってことないけど、なぜだかそんなことをふと思った土曜日になった。

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2001/05/09

 勝つひと

「勝てるひと、っているよなぁ……」
新宿の人ごみをだらだら歩かされながら、ふと。
なんでだか、南口あたりの交差点で信号を待ちながら、ふと――意味もなく思い出す。

もうずいぶん前のことになるけれど、友達が、 「久々に、『好きだった人』と会う約束を取り付けたんだけど」と電話をしてきた。
「でも、ちゃんと来ると思う?日が近くなったら、確認したほうがいいと思う?」

彼女の性格からいって、ほんとうは確かめたかったんじゃないかと思う。
でも、わたしならどうするか、と聞かれたので。
「わたしなら、確認はしない」
「賭けだよね」
わたしが言ったのだったか、彼女か、ともかくそういう言葉が出てきた。
「そう、かもしれないね」
彼女の待ち合わせた彼を思い浮かべると、これは勝てる賭けかどうか、と首をかしげたくなる。
でも。

「そうね……見込みはなく、負けそうだなと思っても、賭けてしまうな、わたしなら」
そう答えたのではないかと記憶する(曖昧)。

見込みなさそうなのに賭ける――勝ちたいと切望するわけでもなく、ただ賭ける。
それだから、
だいたい案の定、負ける。

もしかすると、かるごは、負けるほうに賭けているのかもしれない。負けるとわかっていながら、賭けるのかもしれない

電話をしてきた彼女は、「賭け」て、「負けて」しまった(つまり確認の電話をしなかった、そして彼は約束を忘れていた)。
なんとなく、責任を感じたものだった。

でも、同じことをしても、広い世の中には勝てるひともいる。
いつかそうなりたいと願っていて、交差点でふと思い浮かんだのだろうか?
「勝つひと」。

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2001/02/25

 えほんのこと 

 10年くらい前に始めたことだったけど、わたしはちいさなクロッキー帳でえほんをつくるひと。
 「ぶん・はまなうなぎ/え・えすかるご」、で。
 過去にいくつもいくつも、つくってはあげてしまっていたので、手元には白黒コピーのみ。
  当時はカラーコピーがとても高かったので。
 でも、いくつかやっぱりお気に入りのお話というのはあるもので、いつかこのコピーをもとに
 つくりなおそうと考えていた。
 

 *ほんとは30歳になったら、自費出版をする――という希望的な計画をたてていて、それは
  そういう「ちょっとおきにいりのえほんたち」で、と思っていた。
  見積もりの額におののき、ちょっとストップ。
  ひょんなことで、先に出版の意志が固まってしまったのは『アイルランドのかけら』だった
  けれども。えほんだってあきらめてないわよん。


 ま・それはともかくとしても――先日、ともだちにあげるえほんをつくっていたときに(リメイク
 だけれども) ふと好きな色って、ホントよくわかるなあ、としみじみ。
 長年Faber Castel社の色鉛筆とパステルを使っているのだけれども、(寡作なので減らない)
 どの色も、鮮やか過ぎるほどに鮮やか、というものではなく、どことなくニュアンスのひそむ
 色具合なので好きなのね。
 で、いつもフタを開けて感じるけど、やっぱり好んで使う色は減りが早いんだわって。
 つくるえほんの内容というか、キャラクターみたいなものがだいたい似ているせいかも
 しれない。
 
 好きな色、いろいろ。
 だいだい色と黄色の組み合わせが結構好き。
 色の明るさとあたたかさが、ほんわり感じられるからかな。
 あとは「空の青」。
 いまだ納得のいく「空の青」を決めてはいないのだけれども、
 空の青が好き。
 そして、みどりいろいろいろ……はっぱとか、かえるとかが出てくるかしら。
 たまごいろ。黄色より淡くて、白より黄色いの。弱々しいけどやさしいひかり。
 くすんだ桃色。たからものとか、ぬくもりとか。
 こうばしい茶色。土とか髪の毛とか。
 ぶどう色。だいじなものに塗るかな。
 高貴な赤。まだワンポイントにしか使えないでいる。

 同じえほんをかきなおすにしても、たまには違う色をつかえばいいのに、と思う。
 でも、できないの。
 色に意味を与えて、色にメッセージをこめてしまっているからだろうな。
 それがとっても「つまらない選択の方法」であったとしても、「単純で陳腐な連想」
 であっても、いつまでもその色を使いつづけてしまうんじゃなかろうか。
 この場面ではこの色でなくちゃ、っていうのがあるから。
 色鉛筆でもパステルでも、色を選ぶとき、「その気持ちになって」塗るという楽しみが
 あるから――だから、面白いことに、白黒でしかコピーをとっていなかったのに、
 ちゃんと当時の彩色を覚えているのね。
 たとえ10年前かいたものであっても、たぶん、あまり変わっていないと思う。
 塗りの方法とか、色の選びとか。
 それは、ことばによって補完されてアタマの中でよみがえってくるからなんだろうね。
 白黒ゆえに、かもしれない。
   
 ――と、ささやかに言いながらも、出来はいつだって、ちょいと粗雑なんだけど。(^^;;
  だって、「思いついたらすぐできなくちゃイヤ」なんだもの。
 でも、気持ちだけは、ココロだけはちゃんとこめてかいてきたよ。
 そして、今、久々にかいている。
 ので、こんなどうでもいいことをつらつら綴ってみたくなったのだった。

 えほんは、ことばを絵が補い、絵をことばが補う。
 よくばりなわたくしは、いいえほんもかけたらいいなと思う。
 絵の巧拙は別としてね。

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