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2002年7月2日、同 窓会の行事で蓼科へ行ってきました。
学園の事業部の「蓼科ガーデン」研修所の見学です。
「園芸」、とくに花屋としての要素、フラワーアレンジメントに目的を置いたもののようです。

今年は桜も早かったから、花がはやめに咲くのではと予想され、この日程が設定されました。
ところが、意外にもバラに間に合ってしまいました。
そういうわけなので、色とりどり百花繚乱、といったような華やかな花壇は見られませんでした。
が、徒然草の言を借りれば、花はさかりのみならず、花は鮮やかなものばかりが花なのではないし、ガーデンは
花しかないものがガーデンなのではない――ということを実感させられる一日になったのでした。


入ると、右手に宿泊のできる小さな建物、管理・生活棟(右の写真)。壁にはちゃんと白文字で名前が示されています。
左手にはりっぱな一軒家のような研修施設が建っていて、そちらはからまるツタが見事でした。

――花。
たしかに学生時代に学名・英名・和名で花の名前を覚えたりも したのですが(今でもそのときの花カードは宝物ですけど)、 それでも忘れてしまったものが多く、卒業してからの10数年はただ花をながめているだけになっているんだな、なんてことを思わされました。
名前を言えることが大事なのではなく、大事なのはそれを見てなにかを感じることではないか、とは思います。
でも、そうであれば「知りたい」という欲求につながったりするものですよね。
うーん。

入り口近くで、ひょっとした拍子に粉雪を払ったときのように、
花びらがさらさらと降ってくる枝にあたりました。
ウツギ。
なんて脆い花びら。
もう終わりの頃だったのでしょうけれど、とても印象的でした。
さらさら、という音を「見た」気がします。
この花吹雪に迎えられたわたしたちは、いよいよ歩き始めます。
   
研修棟の前の「芝の前庭」(とかるごが勝手に呼んでいる)で、集合。おおまかなガーデンプランをうかがいました。平らな敷地に、イングリッシュガーデンの数々――。
ロックガーデン(Rock Garden), ボーダーガーデン(Border Garden), ハーブガーデン(Herb Garden), 百瀬*メモリアルガーデン(*事業部の功労者であり管理人だった方), そして果樹園(Orchard)。たのしみです。

ところで、この「芝の前庭」で目をひくのは、地を這うような形で生えている2色のシュウケイバラ(収景バラ)。
バラって、立ち姿で咲いているのを見ることが多いのですが、これは土から開いた大きなお花みたいに、広がるように枝がのびています。

 
   
さて、そこからチラリと見られるボーダーガーデンには2種類。
ブルー系統と白系統――そしてやさしい緑が続きます。

咲き色を目で楽しむという点では、少しさびしく感じられる風景ではあります。なので、今日はせいぜい緑を楽しむことになりそう、と思ったりしたのですが、なかなかどうして!!

だいたい、ひとくちに緑といっても、いろいろな種類がありますものね。
茎や葉の色がくすんだもの、深緑に霜を降らせたようなもの、明るい芝のようなもの、たくましい太さを感じる緑、繊細なやさしいもの……など。

たしかに目立つような、華やかで鮮やかな色のお花はほとんど咲いていなかったのですが、それでもやはり咲いている花はあります。
それもまた、手入れされてそこで咲くように考えられ、種まかれたものです。主役のいない脇役のような花であっても、そのとおりにそこで育つようにと用意されていたものなのですよね。
   
他の鮮やかなお花が咲いていたら、そういった花には個別には目に留めなかったかもしれません。
その全体のコーディネートのセンスや印象には含まれていたとしても。

そういったひとつひとつのささやかな花のかたちにも、豊かな気持ちになれるきっかけがあります。

 
ハーブガーデンに足を踏み入れたら、その瞬間に足元から香り立つ、なんて表現は、決してオーバーではありません。 
   

草花の前でほんの少し身をかがめるだけで、それぞれの香りを感じられます。いろんな香りがまぜこぜなのに、邪魔くさくないというのも不思議。人間が作り出してしまう「におい」は混ざると、時々「悪臭」になるのに。
自然のもの同士だから、大丈夫なのでしょうか。


ここはわりと明るい色の花も多く、背の高いハーブが目立ちました。
たいらな芝を歩いて両側に広がる花々をながめるボーダーガーデンとはまた違う趣です。
足を埋めて、腰までつかって、といったような感じで。
リラックスできる空間で、香りや色からくる雰囲気が気持ちよく滞留しているようでした。

 

百瀬メモリアルガーデン入口
メモリアルガーデンには、百瀬さんのお好きだったという淡い色のお花を集めてありました。
ここがもっとも「ひみつの花園」的な雰囲気のあるガーデンです。その方の「心」と、「思い出」とがしっかり植えられている場所――とでもいえばいいでしょうか。
じかには知らない方ですが。
  ライブラリーも居心地のいい場所でした。
ひんやりしていて、つかのまの涼をとりつつ――書棚にあるブーケの本、写真集、百科事典、オルゴール、写真など。

「モモセカラー=淡い色」にはエピソードがありました。

事業部でフラワーセンターを開くようになってから、自分で花市場に買い付けにいくようになったそうですが、そういったことは“おじさん”たちの仕事です。むくつけき男性の威勢のよい競り声に負け、なかなか声を
出せなかった百瀬さん。結局最後に残りもののような花を買うことになるのですが、それがどれも淡い、ぼんやりした色のお花ばかり。大変安く買うことはできましたが、華やかさはありません。
けれども、 そのいわば「残りもの」ですばらしいブーケをおつくりになったのだそうです。
パステル調の走りとでもいうか、ブーケにもそれが生き、アレンジのセンスのよさとで好評を博したのだそうです。安くていいものができ、淡い色は百瀬さんの象徴になった――と。

だから、ガーデンには淡い色のお花が中心だったのです。

   
メモリアルガーデンから果樹園への入り口。
文字通り花道で、白いバラのお見送りを受けて辞去します。

ちなみにこちらは、メモリアルガーデンから果樹園に
入ってから撮った同じ門。
なんとなく、世界が違うなぁって思ったことです。

でも、たとえばこの日は、
ちょうちょや蜂がひらひら飛んでまわっていたりするのも
よく見かけたのですが、ただ見ているだけなのに、なにか羽音までそのまま聞こえてくるような、心地よい静寂がありました。
50人余りで散策していたのですけれどね。

果樹園の奥の芝でカサコソと虫が動く音、人が近づいても虫もなきやまない――そんなこと、昔はあたりまえだったでしょうけど、今はそうそうないことのように思います。
そのこともあって、自分も庭の一部みたいな感じが
だんだんにしてくるのです。
門をくぐるたび、それぞれのカラーになじむ、というか。

   
かるごは果樹園、ということばの響きが好きです。
また、それを口にするとき、なぜだか創世記の楽園をイメージします。どの実もとって食べてよい、でも園の中央にある木だけはいけない――という世界。
「実を食べる」というその記述のせいかもしれません。
命をつなぐ恵みを感じる場所の象徴、でもあります。

堆肥にする、花がらや落ち葉を入れてある穴も見ました。
そこでは『いのちの循環』を感じるんですよね。
そんなふうに土にかえっていく姿をみると、自然の営みには無駄なものはなにひとつない、ということを
妙に実感させられたりします。

ここではプラムや梅、カーラントなど、名前を口にするだけで、つばが出てきてしまいそうな、おいしそうなやさしい色のものがうっそうと集まっていました。
果樹園のカーラント
   
控えめな色の花に、ただ緑の草むらのそばに、静寂があります。
   
   

ロックガーデン! 

これまたかるご的にはお気に入りになりました。
ちいさなお散歩コース、って感じで。

水蓮のいっぱい浮かぶ池があって、飛石もあって。

ちいさなこの岩山から見る研修棟も、庭も、池も――いいのです。
   
   


飛石、とん、とん、とん。睡蓮に埋もれて美しい。

飛石の上から見ると、こんな感じ。
 

このガーデンは、
「フラワーアレンジメントをする者の心を育てる」ための
研修所だという話を聞きました。
土から生まれた花々と、「自然」と向き合って、
そういう心で花をアレンジしてほしい――ということでした。

自然界のたくさんの営みのうち、
結果として「花」となっているもの を摘みアレンジするには、
その「自然のいのち」に向き合わなければ
という意味なのだと思います。

そして、その意図を感じることができるすばらしい場所でした。
そう、いろとりどりの花がなくても、です。
   
雪がふるように散り始めているウツギのそばに立っていたら、
蜂がとまっているのが見えました。



はじめて、そういう姿をうつくしいと思いました。
また、同じ世界に生きる生き物だという、わたしも蜂と
対等である生き物だと思いました。
   
イングリッシュガーデン」というのは、一見無作為、無造作――
まったく自然のままに放置しているようでありながら、その実、
非常に手をかけているという庭造りです。
日本庭園のように、アピールの強い均整のとれた造形美、とは
違っています。
どちらも心に感じるものがあって好きですが、今回は土のかおり、
生き物の息吹をどんなにか身近に感じることができたでしょう。
日本庭園はそこにいる生き物にも、調和を求め、あるいは感覚さえ
求めているかもしれない……と考えてみたり。
 
   
このガーデン、実は管理人はひとりだけで、わたしより一つ下の方(女性)が冬までの間、
お手入れしてくださっているのです。
そのはかりしれない作業力(もちろん業者委託の部分もあります)に 驚いていることもありますが、
そのことにだけ感動しているわけでは ないのです。
ほんとうの意味で「よき管理人」と感じるからです。

この世の恵みとして与えられている種を、こんなにすばらしく
育てている、手入れしている――心が伝わるのです。
ひとつひとつの草花、そういった植物でつくりあげられている
各コーナー、ガーデン全体……。

単にきれいなだけじゃない、デザインがすぐれているとか、珍種を育てたとかいうだけのことでもない、心の伝わるなにか。


もともと「人間」の役割はこうであったのでは、と思いました。

わたしは熱心なエコロジストではないけれども、
人間はいつか 力任せに「支配する」ことに慣れてしまったのかもしれない、
ほんとは「よく管理する」ことが努めだったのに、と感じました。
そもそも自然は単に「預けられただけ」なのではなかったか――と。
わたしたちはいいものをたくさん授かっているのに、活用はしていない、管理もしていない、
消費しているだけだとつくづく思います。

キリスト教的思考かな? かもしれない。

聖書のいっとう最初は、創世記という「天地創造」の物語ですが、
その中で神は人に「海の魚、空の鳥、家畜、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」といいます。
そう、ここではたしかに「支配」といっています。
「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。
それがあなたたちの食べ物となる。
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」
と続くので、人がどれだけきちんとした地位を与えられていたかわかります。
「すべて命あるもの」には青草だけど、「あなたたち」には全地に生えるものをすべて、です。

その後、神さまは「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、
人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見」ました。
「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名になった」のですが、 あらゆるものに名をつけても
「自分に合う助ける者は見つけることが できなかった」――というわけで、
同じ人として「女」が与えられ、楽園追放にいたる出来事云々があるわけですが――。

そう、楽園追放時に、男と女はともに、
「土は呪われるものとなった。お前は、一生食べ物を得ようと苦しむ」
と宣告されます。
「お前は顔に汗を流してパンを得る」
ここではもはや、「支配」は認められていないのではないか??
食べ物は得られないわけではない、得られるけど、苦労する――なので、
支配させようといわれたものたちとよりよく共生できれば、命をつないで
いける――というようなことを言っているのではないか??
…… などと考えてしまうわたしです。

ウツギの中の蜂を思い出しても、あの蜂は生きるために「苦しむ」ことはないかもしれない、と思います。
どうしたら共に生きられるのか、植物は知っているとも思いました。

土から生まれ土に帰り、植物のその循環の中で、生き物もいのちを
つなぐ――あたりまえのことなんですけど、「いのち」というのか、
それもプリミティブな、シンプルな、 「いのち」の世界を体感してきた一日でした。

育てたひとの心を映す自然の美しさ、そしてそれはながめる第三者にきちんと伝わり、
なにかを感じさせてくれるのですね――。



でも、ほんとうはそうであってほしくない場所でもありました。


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