September 28, 2006

去り際

1泊2日の、中高生との修養会をすごしながら、つれづれ……。

ここ数年、かるごまるは実は、教会学校からの去り際ってやつを見極めていたりする。
一番の理由は、長くやりすぎた、ってこともある。
自分の心の限界を感じていることが大きい。

これまで、中高生の可能性や成長の過程をまざまざと見られることは、ほんとうに
楽しかったし、うれしかった。
今、それに魅力を感じていないわけではないけれど、気持ちが少しくたびれてきて
しまった。
中高生たちのせいではなく、自分自身の問題だ。
彼らのためにじゅうぶんな時間と心とを使ってあげられることが、少なくなってきて
しまったのだ。
これは、わかっていても、どうしようもないところである。

はじめは「仕事のためでもないし、自分の趣味に生きるスタイルのためでもない、なにか
別の理由がある」と思っていたが、いやいや、そうではないかもしれない。
結局のところは、やはり「自分のために生きる」ため、そのせいで心の配分が削られて
しまっているのだろう。
みんな、ごめんよ。

昔どおりのやり方でできること、できないこと、いろいろな形を変えて対応してきたつもりでは
あったが、自分自身の限界を感じることが多くなってきた。
中高生と付き合うことに。
中高生の「今」に、対応していくことに。
中高生の「必要」に敏感に応じることに。

どのように、付き合っていけばよいのか――自分の持っているものが果たして彼らのために
どう使えるのか、わからなくなってきている。
もちろん、わたしひとりでできることでもないし、仲間がいてこそできることもある。
が、その仲間にとって、果たして有益な存在かどうかもあやしい。

――今年は、スタッフも入れ替えがあって、一新されたことも大きい。
そのメンバーの中でやっている今、いよいよ来年はかるごがいなくても大丈夫だろうと
思えるようになってきたから。
そういう言い方はおこがましいのだけれども、でも、正直なところそうなのだ。

ぜんぶ任せて大丈夫、というのとはちょっと違うのだけど、不安が残るのはあくまで
「事務連絡」レベルの問題で、対中高生についての彼らの力はとても大きくて、不可欠の
ものとして、お任せして大丈夫と信じられる。
子どもたちのために生かされている個々人の能力は、与えるばかりではない。
逆に刺激を受けてさらに発展する可能性があって、それがまた、子どもたちに影響を与えて
いく……――プラスのサイクルがある。

自分はと振り返ると、そういうサイクルをつくる「彼ら」が現れて、担ってくれるためのツナギ
だったと実感する。
こういう状況は、とてもありがたく、そしてうれしい。

生きていく営みはなんでも、「引き継いでいくこと」が究極の目標と思う。
命をつなぐことも、仕事や伝統……――。
ひとつの志を、どのように、なにによってつなぐのか。

去り際。
きちんと見極められる目がほしいと常々思ってきたが、来年3月はいよいよ「そのとき」を
迎えることになりそうだ。

ありがとう。

Posted by Karugo at September 28, 2006 01:42 PM
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