ニュースを見ていると、落ち着かなくなる。
幸せなニュースなんてほとんどなくて、どれも乱暴で、ヒートアップしたものばかり。
事件そのものの性質が、というだけのことじゃなくて、ニュースの伝え方も。
高温に達してすぐには「弱火」にできないような、そんな熱さ。
そんなにわたしたちは、飢えているのか?
血に飢えているのか?
そんなこともふと疑問に思ってしまうような――そんな「熱さ」を感じる。
批判や糾弾が、ものすごい勢いでなされ、食い散らかされ、しかし何事もなかったように
口をぬぐい、次の獲物に向かう。目を向けさせられている。
ふと立ち止まると、追いつけなくなるほどのスピードで。
取り残されはじめてきた今、疑問に思う。
果たして、今目にしている・耳にしているニュースは、自分の生活に必要な「情報」なのだろうか?
「警察はこういう対処をしておくべきだった」
「会社はこういうことを想定して、体制を整えておくべきだ」
「親がもっと○○すべきだ」
……
……
……
……
「~すべきだ」というものには、自分の意見とも合致することが多かったりして、なかなか
気づかなかったのかもしれない。
実は「べき論」のほうが、ニュース本編より情報量として多くなっている。
シンプルなニュース番組というのが、意外となくなってきている。
自分たちが立っているところが、いかに正しいか。
いかに狭き島に、正しく立っているか。
証明するように、繰り返し繰り返し――多くの、さまざまなコメンテーターによって
しかし、さまざまではなく、同じような語気で語られる。
そちらのウエイトのほうが大きくて、ニュースそのものを単純な「事柄」として
伝えられる力がなくなっている気がしてならない。
「次の生贄です」といって、新しいニュースが語られているような気がしてならない。
同じようなニュースを聞き、同じような論調のコメントを聞き、聞き続ける……。
結構しんどいのだと、最近感じている。
ニュースをみると、殺伐とした気分になる。
わたし自身が終末的なのか、世の中が終末的なのか。
ふと、秋晴れの朝に思う。
教員免許状を再発行できますか、と問い合わせがあった。
これは東京都が発行しているものだから、こちらがコピーをとってどうするこうする、
というものではないのだと教えると、一瞬絶句された。
簡単に再発行がお願いできると考えている(と思われた)様子にガッカリした。
都が発行してくれるまでの間、見えない事務の積み重ねがあるわけで、そんなに
簡単にできることじゃないんだよ、と言いたくなった。
きっとそんなことも知らない、思い及ばないのだろうなと思ったとたん、ガッカリする
ほうが間違っている、と気づいた。
見えない事務の積み重ねなんて、わかるわけがない。
そして、そんなことがあると伝えて、なにがどうなるわけでもない。
あるいは、こちらにどんなに高潔な(!)意図があって、話すことがあったとしても
伝わるものでもないだろう。
あえて、そういう「見えないものがあるんだよ」と知らせるのは、単なる自己満足、
アピールにすぎない。
そもそも、世の中は何事も「見えないことの積み重ね」で成り立っているはずなの
だから。
もちろん、オモテに現れるものがすべて――でもない。
見えないことを知る必要がない、というのでもない。
いずれにしても、必要なときに――必要があったときに、「ふだんは見えないもの」は
きちんと明らかにされるだろうから、「見えないこと」に意味があるのだ。
見えない積み重ね――今日も明日も、また続く。