泣いてはいけない場所で
泣いてはいけない場面で
泣いてはいけない時間で
泣きたいときには
目薬をさす
ちょっぴりしみたつもりで流れてもらおう
涙
人の痛みを知りつくせること、共感しきれることなんて、そうそうない。
どこかで、最後は自分のものさしではかってしまう。
実は、自分が一番つらいわけじゃないし、みんな大差ない経験をしている。
そんなことに気づくのにも、案外ちょっと時間がかかる。
大人になるっていうのは、遅まきながらでもそういう気づきを得る――
ということでもあるのでは、と思う。
いつでも発展途上。
だから、生きるのを止めちゃダメだ。
まだ何にも知らない。
わかったふうに思えても、
人生知り尽くしたように思えても、
まだまだ知らないことはたくさんあって、知れることもたくさんあって。
チャンスはたくさんあるんだ。
やっぱり自分の痛みには鈍いかもしれぬ。。。。。
意外と、ダメージ……。
ま・自然治癒能力を信じよう……@”
ということを考えさせられる場面がある。
もしも、この電話をとるのが自分だったら。
もしも、この人と話すのが自分だったら。
もしも、この仕事をするのが自分だったら。
もしも。
もしも。
もしも。
「もしも」はいつでもどこにでも満ち溢れている。
もしも。
もしもがなくなったら、世の中はどんなにかつまらないだろう。
志は失わないが、ついついくじけそうになってしまうこともある。
それはいつでも、何についてでも、言えることだけど。
だからたまにこうして――進化なく変わり映えなく、ではあるが――毒を吐くのである。
反省すべきところはおおいに反省し、強くならなければいけない。
常に自分が正しいわけではない――。
この言い聞かせが、どれほど役に立っているか怪しい部分もあるけれど、でも、そう
思い返して冷静さを取り戻そうとする。
何かを成し遂げるときに、そのプロセスには必ず孤独を伴う。
ほんとうは孤独などではないのだけれども、ひとりを感じる場面があるように思う。
でも、やっぱりお祈りして始めるのはいいもんだなぁ。
――そうすると、ひとりではなくなる気がする。
毎年この時期になるとただ叫ぶだけだが――
暑い!!!
そして、かるごは暑いのがキライだっ!!!!!!!
しかしそれを言ったところでどうにもならん。
ならんこともわかっているが・・・・・・・・
暑いのはキライだっっっっっっっっ!!!!!
芝刈りが、された。
さっきまで好きほうだいにのびていたネジバナもクローバーも、
すっかりきれいに消えた。
そのせいか、真っ赤なサルビアがひときわ輪郭を強くして映えているように見える。
そういう潔さもあるんだね。
そして、芝に落ちる影、葉と葉の陰りが、とても色濃くくっきり見える。
目の奥に届くおひさまの影の色。
これでも、夕方なんだよね。
一ヶ月もこちらをほったらかしにしてしまった。
いかんいかん。
まとめて何かをつづる気持ちが少し遅れてしまったな。
とりあえず、うつくしいものに触れたということで――写真を。
他人がこれをうつくしいと感じるかどうかはまた別だけど。

こんなにうつくしく(?!)噛み切れると気持ちいい。
――
日常のどうということのないものの中に、うつくしいものはたくさん見つけられるのよね。
芝生にのびる自分の影。
好きほうだいにのびるネジバナやクローバー。
ちいさな黄色い花もひょろりとのびて、ゆらゆら暑さの中で生きている。
帰りにはまた、写真に撮ってみようかな。
と思いつつ。
怒っている、というのとはちょっと違うんだけど、
そう、呆れているんだ――……「役職につく責任」について、どうお考えなのか。
のぞむのぞまないとにかかわらず、やるべきことはやらなくてはいけないし、
役職による責任で果すべきことがあるだろう?
知識の有無にかかわらうず、違う役割を負っているはずだし、負うことを考えられる
はずだし――。
と、考えていたら頭が痛くなった。
なんだか落ち込む。
呆れているとは言ってみたものの、しかし怒りに近いな。
やはりヤコブの手紙の聖句を心にとめなくては。
“聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅く”――下半期のテーマ。
どのせいなのか――アタマが痛い。
この重苦しいモヤモヤ感はなんであろうか。
天気に影響を受けて滅入っているのか、換気の悪い事務室の生なのか、
それともカルシウム不足でカリカリしてしまったからなのか。
なんであろうか?
人と人は、向き合って話す。
その距離が近いときもあれば、限りなく離れているときもある。
声が届くこともあれば、届かないときもある。
相手の気持ちになる――ということを、最近忘れていたかもしれない。
少し突っ走りすぎたか。
かたつむり時間に戻ろう。
本屋で酔うというのは、どういうことだ。
とある新刊本を手に取ろうと、その帯を見ていたら気持ち悪くなってしまい、吐き気が。
残念なことに、本はおもしろそうなのに――その帯が楽しみを半減させてしまった。
そして、そんな本が多いことに気付いたら、気持ち悪くなってしまって。
帯、好きなんだけどなぁ。
デザイン性がないもの。
キャッチーじゃないもの。
いずれも、自分の好みかどうかってことに過ぎない話なのだけれど――
ちょっとがっかりするものが多くて、手にとった瞬間急激につまらない本になって
しまったように思う。
それで気持ち悪くなってしまった。
本屋で気持ち悪くなるなんてこと、めったにあるもんじゃない。
自分が今すごく低調だから、それだけによけいにうつくしいものに触れたいのに。
うつくしいことばに出会いたいのに。
食傷みたいな気持ちになりながら、ひととおり眺めてみた。
帯によって本自体の魅力が、すごくチープなものになりさがる可能性があるんだと再認識。
うーん。
申し訳ない。著者のみなさま。
でも、ことばも消費社会になっていて、良質なものもあるだろうけれど、活字である必要の
ないものもたくさん出回っている、と思わされてしまった。
ああ。
気持ち悪い。
しかしながら、「読みたい本が見つからない」――という、これは本屋のつくりの責任もある。
天井の高さ、子ども本の店頭ディスプレイは、悪くないのに――なにかが違う。
見つけやすさ、見つける楽しみが足りないんだなあ、きっと。
分かりやすくなくてもいいんだけど、お・こんなところでめっけもん、という楽しみが少ない。
きっと、読みたいと思えるものがあるだろうに――見つかるようにはできあがっていない。
ひとり、不器用そうな、でも大事にしておられるだろうと思う年のいった店員さんがいるの
だけど。
そのひとが全部をしきってくれていたらいいのになあ。
もちろん、そのひとの能力なんてなにも知らないけれど、そのひとが一冊の本を直している
様子を見てから、そう勝手に思い込んでいる。
きっと「本」という文化を大事にしているはずだって。
でも、地道に期待はしておこう。
10%引きしてもらえる学内三省堂ではなく、「ここで見つけて今すぐ買って読みたい!」と
思える本に出会える場所になってくれるように、と。
読書が、したい。
うつくしいことばを見たい。
うつくしい世界をのぞきたい。
するのは仕方がないのかな。
世の中すっきり割り切れることばかりじゃない。
自分自身ががっつりかかわっていたら、
もっと踏み込んで解決というか決着を望むことも、
得られることもできたのだろうけれど。
そう。
周辺にいるだけのときは、いつもぽつねんとして取り残されたり、
取り残されなくても腑に落ちる解決法を得られないでおわったり
するものなのだ。
そういうものだよな~~~~。
もやもやはするが。
1年前の上司の仕事なんて、覚えていないけど――(^^;
でも、毎年、それを追わせるように任せられようとしていることは、わかる。
それに追いついていっているかというと微妙だけど。
だれかと仕事をするということは、自分の適性を知るチャンスでもあり、試される苦痛もある。
期待されることを知らされるし、ストレートに言い合う機会が得られていることは、
いいのだろう。
それでも、まだまだうまくできないところもたくさんある。
頭でわかっていて、行動できていないこと。
これが、自分にとっての一番の課題かも。
「一応の社会人」らしくなってきたのが人より遅いからか、今になってようやく、
そういうことで父と話ができたらいいなと思うことがある。
ちょっと遅かったね、かるごの成長が。
そうそう。
脇へそれるけど、父の死には「乗り越えられない」という痛みや悲しみはなかった――
というと、薄情にきこえるかもしれない。
ただ、悲しくなかったわけではないし、抱え続ける痛みはある。
それ以上に――以前にどこかで書いたと思うのだが――命を思うこと、生きること、与えられた人生
について考えさせられたことで、消化できている「喪失感」である、ということなのだ。
というわけで、今父のことを思うのは、仕事をして生きていくという側面で、話せるチャンスが
あったらよかったな、とふと思う年度末であった。
期待されて次に進むこと。
なにができるのか。
どうしたらいいのか。
自分はもっともっとがんばれるのか。
成長させてもらったように、だれかを成長させることができるのだろうか。
もちろん!
かるごは仕事一徹ではなくて、趣味の時間というか自分の時間の大切さ、大きさ、必要性も
はっきりしている。
多少時間に制約ができても、あきらめたり捨てるつもりは一切ない。
わたしらしく、かるごらしく生きる時間は、きちんともっていく。
これは、以前よりももっと明確に必要性を感じている。
それも、逃避的役割ではなくて、バランスとして。
両側にあって、バランスを保つために、どちらかがおろそかになってもいけない。
かるごにならない、ということを、つくづく思う。
なにも捨てない――けど、それは固執して変わらないというのではない、ということを実感して、
新年度に対して戦々兢々とした気持ちを抱いている3月最後の週末であったりする。
かるごバージョンアップ計画は、続くのである。
てなわけで、最後に叫んでおこうっと。
「6月に、アイルランドいきたーーーーーい!!」
ブッシュミルズ400年記念!!!!!!!!!
たまに、打てるんだな、わたしにも。
やった♪
だって。
だって。
だって。
他の企業と比べて大変じゃない、なんて言えないもんね――比べる対象が違うから。
よその大学と比べてそう言うならわかる。
だからといって、大変だと言いたいわけじゃない(違う意味で大変な状況だと思うけど)。
言いたかったのは、大変でないことを大変だと言うことや、自分だけが大変だと吹聴すること、
あるいは他企業と比べて大変だと言うことは不正確、不適切だってこと!
大変なんて、自分の感じ方次第だもんね。
母が分骨して家に少し置いておきたいと言ったとき、わたしは母がしたいならそうすればいい、
と思ったので、反対はしなかった。
個人的には――骨にはもう何もないと感じていたのだけれど。
実際、雑貨屋で「いいのを見つけたの」といって買ってきた壷に少し移そうとして
骨壷を開けて中を見たとき――
「あぁ、やっぱりこれは抜け殻なんだ」
と思った。
人から見れば薄情といわれるかもしれないけど、
「ここのどこにも、お父さんはいないなぁ」。
火葬後の骨を見たときに、自分たちの手の届かないところにいったことを実感したのは、
間違いじゃない――と。
とくに、あのときには説明がなかった差し歯を見つけたときに。
人工のものは、残る。
いずれは朽ちて消えるのかもしれないけれども、本来の、人であるために構成されているものは、
やはり塵に帰るんだなぁ、って。
骨壷に意味がないとは思わない。
でも、そこにはいのちはもちろん、魂はなくて。
ただ『跡形』があるのだ、と思う。
骨を見てわたしもいつか、このようになる――と思ったら、ここに執着されることなく、
土に返してもらえばいい、と思った。
散骨は、もういいや。
……そのむかーし。
付き合う前の夫ぎみに、「わたしが死んだら、散骨係になってくれ」と頼んだことがあったが――
それはもはや不要の役割になった。
この世での命を終えたら、わたしはどのように葬られてもかまわない、って思う。
だから、大丈夫。
父は死んでなお、いろんなことを考えるチャンスをくれるなぁ。
大きなことも、小さなことも。
人が生きた証しは、そういうところにも、あるんだ。
今日は納骨式。
生きていれば、父の70回目のお誕生日のこの日に、お墓におさめた。
Work Hard! Play Hard!の銘を刻んだお墓に。
おとうさん、ほんとに、ありがとう。
落ち込んでいる――というか、傷ついていたことに気がつく。
われながら鈍いな~~~~~~~~~~~~~~~。。。。。
ま・いいや。
とりあえず、意固地にならないこと――心を静かに保つこと。
祈ってのぞむとしよう。
――書きあがらない原稿を前に。
今週はとくに、自分の未熟さを思う。
なんとも。
人に対する見方も、もう少し大人にならなくては。
感情的に爆発!!となることは少ないけれども、それでも、評価は感情的に下しがち――
と感じることもある。
気をつけないと。
見ているように、自分も見られるのだ。
学んだこと。
「人から頼まれたことを後回しにすること」は、「自分の仕事は立て込んでいて忙しい」
ということの証明にはならない。
なぜ、カンチガイするんだろう?
優先順位は、自分の中にもちろんあるべきものだが、他人のぶんも推し量らなくてはいけない
ことがある。
いや。
一呼吸おいて、自分がまず気をつけよう。
そういうことに向き合っていても、気持ち悪くなるだけだから
考えないようにしよう・・・・・しよう・・・・と思っても、
どうしても考えてしまう。
ばかばかしい。
でも、しょせん、他人さまの人間関係について、なんて、心配しても仕方ないことのほうが多いんだ。
そういうことも、いいかげん学習しないとだめだね。
おせっかいも喜んでできなければ意味がないって――ありゃま、あたりまえのことだね(^^;。
かるごのアタマの中には、あーいう世界がいっぱいあるってことだよね、
と、しみじみ夫ぎみに言われてしまった。
ちびぽんずの雪遊びをアップしたあとのこと――。
それがどうかしたのかしらん?――と思ったけど、なんていうか、
アキラメというかアキレというか、こんなはずじゃなかったという
わけでもないだろうけれど……まぁ、いろいろ複雑みたいで。
「世界をかるごわーるどの一部に、っていうひたすらのんきイマジネーションを
持っている人間だってことは、百も承知だと思っていたけど?」
と言ったら、
「そりゃそうなんだけど・・・あばたもエクボっていう時代があったってことなんだよ」
と答えられた。
ほー、なるほろ。
そうだったのか~~~~。
いやぁ、おもしろいねぇ。
ま・かるごはぜーんぜん気にしないけどね!!
だって、かるごわーるどは世界の一部じゃなくて、世界を凌駕するものだからさっ♪
「文藝春秋」2月号を、ようやく開いている。
その特集を読もうと思って買ったのに、開ききれずにいた。
みな、それぞれに受け止め、乗り越え、みているのだと、知る。
でも。
やっぱり痛い気がする。
今年の目標は――何度も書いている気がするが――Step Up。
再生(Replay, Revival, Restart)を果たした2007年から、単純な繰り返しではなく次に進むこと!
いつだってなんだって、現状維持なんてことを言わない限り、それは当然の目標となるはず
なのだけど、意識的に自分のニガテなことに取り組んだり、乗り越えて成長したいから、あえて。
横文字はいやだったんだけど、これにあてはまる――しっくりくる日本語が思いつかないからなぁ。
去年は2月にアイルランドに行って、ものすごく「リフレッシュ」されて、滞在時間の長短では
ないことを実感したんだ。(Nardyさんのお誘いのおかげだよ!)
それが「Ireland photologue おかえり」の本という成果に結びついたわけだ。
これは、何にせよ続けていかなくちゃいけないと思う。
エネルギー補給と、それを別のエネルギーとして世に放つこと。
また、父を亡くしたことで、その存在感や、消えることのない罪の意識や、命のあり方など
いろんなことを感じることになって――悲しみや苦しみは、それでも支えられたり、慰められる
機会をいただいたりして、自分は見捨てられた存在ではない、与えられた生をまっとうしなくては
いけないひとりであることをもつくづく感じた。
できることは、やらなくちゃいけない。
やらなくちゃいけないことが、ある。
だから、かもしれないけれど、今年度奉仕することになった小5・6年での月1回礼拝メッセージ担当は、
準備することと語ることで、すごい恵まれた。
メッセージ者が自分で「恵まれた」などと言うのも変な話かもしれないのだが、知識の乏しい中で、
夫ぎみが先生たちのために作った教案ベースを使って、かるごなりに真意を探ってみた。
子どもたちに伝えようという気持ちと、祈りとみことばで準備する過程、そして良しとされて語ることが
でき、祈りで結べる、というひとつの完成形(っていうと大層ですが)を教えてもらった。
ありがたいことである。
ひとつにはわたしのための、奉仕でもあったのだな~と思う。
そうそう、夫ぎみに頼まれたメッセージ挿絵製作も、また勉強になることが多かった。
自分の描きたいものと描くべきものはちがう。
相手の望むものを描く楽しさ、難しさをあらためて感じた。
それがうまく合致したときの喜びは、それだからこそ、大きいのだろうな。
まさしく、「おかえり」の本作りのときと同じで――自分の思いだけで突っ走って作ることもできる
のだろうけれど、そうしなかったことと同じ。
読み手をより意識したり、見せ方を工夫することで自分の思いをより効果的に表せたり、そういう
ことの提言を出版社さんからも、デザイナーさんからもいただいて出来上がりを迎えられたときの
達成感、充実感ははじめての体験だったから。
職場の中で真剣にその未来を考え、そのために働く姿勢には変わりはないけれど、それとは別に、
自分の賜物は、やっぱりことばとか写真とか、そういうものを通しての「表現」なのだということを
実感できたし。
無理はキライ、努力もニガテ、元来怠け者かるごにとって、“Step Up”なんてテーマは、実は
結構キツイんじゃないかと想像するけど――成長痛は続くのだと思って、がんばろう。
土台が(この年になってようやく!)できたのだと実感できたところで♪
生きている限りは行くべきところをめざして、前進して成長し続けていかなくちゃいけないという、
使命感みたいなものさえ感じている2008年。
いよいよ、ますます、かるごらしく生きていこうではないか~~~~。
……心ひそかな小さな棘は、最後まで忘れることなく大事に持ちつつ。
真意、奥義はわたしに向けてではないから、都合よく受け止めているわけでもない――が、
それでも、あの日の朝頭をめぐったこの聖句を、忘れずに、ね。
あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。
あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。
――ダニエル12:13(新改訳)
※つぶやきに書いた断片を集めてみた感じの記事になったなあ……ま・いっか!!!
しばらく年末年始はこちらもオヤスミ。。。。
PCのネットワーク接続がうまくいってません。。。。
帰ったら直っているといいなぁ。(現実逃避)
……
……
……
……
……
……
で。
帰ったら、治った!!直った!!
なおった~~~~~~~~~~~~~!!!!
話し合いの最後に、祈り合えるっていいことだね。
それがまた、とても自然なことで――お互いを思い、神さまのココロに届くように
願うこと。
そして、同じように、ひとつのことについて祈ろうと言い合えて、
また時を合わせて祈れたということは、よかったな。
黙祷ではあったけど。
祈りは大切だなあ。。。。。あらためて。
かるごのこれからの課題――たぶん、最重要課題だろうなあ。
シビアになること――ビジネスライクな交渉ができるようになること。
そのためには、もう少し柔軟性のある話し方、受け止め方ができるようになろう。
公平に生きよう。
――もちろん、創造的世界では「世界をかるごわーるどの一部に!」でいくのだけどね!
いつもとおなじ場所に乗ったのに、いつもより数倍混んでいた。
隣の扉からにすればよかった。
なぜかあちらはすいている。
いつもとおなじ駅で降りているのに、いつもより数倍混んでいた。
階段、ちっとも進まなかったな~。
そのくせ改札機はスムーズに流れていた。
不思議だ。
いつもと同じなのに、ちょっと違う。
いや、待て。
日々いつもと同じ、ということはないのだ。
ちょっとずつ違う毎日の連続――それが、「いつも」なんだ。
言わなくてもわかること。
迷惑かけないから言わなくてもいいこと。
そう思って言わないで終わる「ひとこと」には、実は
ちょっとした重みがあったりする。
大事な「ひとこと」であったりする。
直接影響を受けなくても、でも、そのひとことがあったことで
なめらかになる関係もある。
なめらかでいつづけられることもある。
よく、ほう・れん・そう(報告・連絡・相談)っていうけど――事の大小に
かかわらず、このための「ひとこと」はとても大事だ。
最近はとくに、思う。
ニュースを見ていると、落ち着かなくなる。
幸せなニュースなんてほとんどなくて、どれも乱暴で、ヒートアップしたものばかり。
事件そのものの性質が、というだけのことじゃなくて、ニュースの伝え方も。
高温に達してすぐには「弱火」にできないような、そんな熱さ。
そんなにわたしたちは、飢えているのか?
血に飢えているのか?
そんなこともふと疑問に思ってしまうような――そんな「熱さ」を感じる。
批判や糾弾が、ものすごい勢いでなされ、食い散らかされ、しかし何事もなかったように
口をぬぐい、次の獲物に向かう。目を向けさせられている。
ふと立ち止まると、追いつけなくなるほどのスピードで。
取り残されはじめてきた今、疑問に思う。
果たして、今目にしている・耳にしているニュースは、自分の生活に必要な「情報」なのだろうか?
「警察はこういう対処をしておくべきだった」
「会社はこういうことを想定して、体制を整えておくべきだ」
「親がもっと○○すべきだ」
……
……
……
……
「~すべきだ」というものには、自分の意見とも合致することが多かったりして、なかなか
気づかなかったのかもしれない。
実は「べき論」のほうが、ニュース本編より情報量として多くなっている。
シンプルなニュース番組というのが、意外となくなってきている。
自分たちが立っているところが、いかに正しいか。
いかに狭き島に、正しく立っているか。
証明するように、繰り返し繰り返し――多くの、さまざまなコメンテーターによって
しかし、さまざまではなく、同じような語気で語られる。
そちらのウエイトのほうが大きくて、ニュースそのものを単純な「事柄」として
伝えられる力がなくなっている気がしてならない。
「次の生贄です」といって、新しいニュースが語られているような気がしてならない。
同じようなニュースを聞き、同じような論調のコメントを聞き、聞き続ける……。
結構しんどいのだと、最近感じている。
ニュースをみると、殺伐とした気分になる。
わたし自身が終末的なのか、世の中が終末的なのか。
ふと、秋晴れの朝に思う。
教員免許状を再発行できますか、と問い合わせがあった。
これは東京都が発行しているものだから、こちらがコピーをとってどうするこうする、
というものではないのだと教えると、一瞬絶句された。
簡単に再発行がお願いできると考えている(と思われた)様子にガッカリした。
都が発行してくれるまでの間、見えない事務の積み重ねがあるわけで、そんなに
簡単にできることじゃないんだよ、と言いたくなった。
きっとそんなことも知らない、思い及ばないのだろうなと思ったとたん、ガッカリする
ほうが間違っている、と気づいた。
見えない事務の積み重ねなんて、わかるわけがない。
そして、そんなことがあると伝えて、なにがどうなるわけでもない。
あるいは、こちらにどんなに高潔な(!)意図があって、話すことがあったとしても
伝わるものでもないだろう。
あえて、そういう「見えないものがあるんだよ」と知らせるのは、単なる自己満足、
アピールにすぎない。
そもそも、世の中は何事も「見えないことの積み重ね」で成り立っているはずなの
だから。
もちろん、オモテに現れるものがすべて――でもない。
見えないことを知る必要がない、というのでもない。
いずれにしても、必要なときに――必要があったときに、「ふだんは見えないもの」は
きちんと明らかにされるだろうから、「見えないこと」に意味があるのだ。
見えない積み重ね――今日も明日も、また続く。
連鎖というのか、影響というのか――単純にいえば、「習い性」なんだろう。
人はしてもらったことをするように、
されたことをするように、
する。
それは、案外無意識のうちに――徐々に徐々に、そうなっていくようだね。
話を聞いてもらえた人は聞ける人に、聞いてもらえない人は、聞けない人に――というふうに。
自分は大丈夫かな?
人の話を聞ける人でありたい。
そんなひとこまから、ふと実感したことだった。
自分の心がむなしく割れてしまいそうになるときでさえ、 ちゃんと注がれるものがある。
分かれ分かれになりそうだったココロが、すんでのところでつなぎとめられることがある。
どんなギリギリで最後かと思いこんだ瞬間に、勇気づけられることもある。
今日はたくさん、「ありがとう」をもらった。
それは背景のある、配慮のある「ありがとう」だと感じたのだけれど――心がない儀礼的な、
という意味ではなく―― いやいや、わたしのほうが「ありがとう」だった。
「ありがとう」にこめられる思いは、伝わる。
自然と。
心の弱さ、小ささ。身勝手な自己中心的な思い。傲慢。
気づかされて嫌悪感に苛まれ、悪循環に陥りそうな危険性を感じていた今日、
なおそのときにあらたな喜びに気づかされ、促され前に向き直れるチャンスがあると
教えられた。
不思議。
それこそまさに、わたしは一人で生きているのではないことの証明なのだろうな。
ほんとうに、ありがとう。
「ありがとう」をもらうことで、もらったチャンス。
自分から変わっていこう。
なんとも――こわいような、しずかな夢を見た。
広いまっすぐな道路を、まっすぐまっすぐ進んでいる。
隣にだれがいたのか、車に乗ってのことだったのか、わからないのだけれど。
このまっすぐな道路を、いつか右折するときがくる。
それが、わたしの命の終わるとき。
命を終えるために、右折をするんだ――って。
なんでそんな夢を見たんだろう?
たまには焦るべきか?とも思う。
最近、あまり焦りもない。
怠惰というのとはちょっと違うけれども、何もしていない気がする。
ようやくのろのろと始動しているとはいえ、それでもトータルで
いけば今はまだやや停滞気味である。
やらなきゃと思うやりかけのことがある――そしてそれは夢の実現
のはず、にもかかわらず、なんとなくすっきりてきぱき動けないでいる。
「なんでだろう」――って疑問もない。「なんでか」わかってるから。
時間がないわけでもない。
いや、ある意味「ない」のかもしれないけど、そこからクリエイティブな時間を
ひねり出すのは得意なはずなのに。
そうしていない。
今朝、ユリノキの幹からちいさな「枝の元」が生えているのを見つけた。
写真を撮る。
こういうひととき、ひとこまが自分には必要だということを、思い出す。
養われる瞬間。
養われる時間。
それに満たされて生きる毎日。
おいおい、かたつむり。しっかりせぇよ、と暑い空に向かって思う昼下がり……。

さて。
一段落したので――そろそろ、再開しないと。
本の準備も含めて、クリエイティブにいかないとね。
というわけで。
手持ち無沙汰もなんなので、ちょっとだけ職場風景(!)の
ちびぽんずわーるどを更新。
目を見つめては、かわいいなぁ……と和む朝。
1ヶ月。
そういうことに自分で区切りをつけているつもりや、意味をもたせているつもりは
なかったのだけれど――近づくにつれて、冴え冴えとしたまま天井を見つめながら
眠れなかったりしていたのは、やっぱりなにかあるんだろうな。
少しずつ遠のいていくことが、いけないことのように思えて。
遠くに感じていってしまうのではという、不安があって。
すべてはとどまらないし、自分は進んでいく。
仕方のない、いつか通過するポイントだったと理解していながら、まだ自分で
整理のできていない心持ちがあるようだ。
この先時間幅を区切って生きることは、信じていないことと同じになる――
とも思う。
でも、それでもやっぱり、勝手に少し苦しい、少しせつない思いで朝を迎えた。
一ヶ月たった、その日。
※これもなかなか公開できずにいたエントリー。
でも、封じ込めておく必要もないやな。
えいやっ、である。
2年前、父が武蔵大学で講義したときのエッセンスDVDを観た。
10分と5分にの2種類に編集されていて、全体を収録したものではなかったが、
でもきっと上手にまとめてくださったのだろう。
テロップがつけられていたポイントには、奇妙にしっくり共感できることがあった。
親子なんだから、当たり前なのか?と思いながら観る。
直接こうだということを教えられてきたわけでも、見習ってきたわけでもないような
気がするのに、同じ信念が伝わっているんだろうか。
しかもことばの使い方なども同じよう、などと思うのは、やはりなにかしらの形で
教えられてきたということなのかも。
おもしろいな~。
驚きというよりは、おもしろさ。
ふと思い出す。
ニュースを見ながらの父の意見の中には、「乱暴な言い方だなぁ~」と感じたときも
あったけれど、率直なところ自分にもことばが違うだけで同じ意見があったりして――
父は正直なだけなんだなぁと実感することが幾度となくあった。
たぶん似ているんだろうなぁ、感覚が。
父ほどきっちり理詰めな人間でもないわたしだが、腑に落とすまでの「思考作業」は
なんだか似ている。
言い聞かせて、まとめて、腑に落とそうと努力する(つまり落ちていないときもある)。
共感できる部分は多く。
人との関係を述べるに至っては、自分のルーツを見た!って感じだった――いや、これは
過去形ではなく、現在進行形だが。
いろんな方から聞く父の交友関係の持ち方、あり方、過ごし方……決して同じではないが、
なんとなく、どことなく通じるものがあるような。
人を信頼したい人、であったと思う。
信頼すべき人を求め、相手にとって信頼される人でありたい、と願ってきて、その通りに
なってきた、とも。
そりの合わない人ももちろんいるだろうけど、しっかりとした結びつきを得られる人と
多く出会ってきただろう。
――ということを、「知っている」ような気がした。
そうだったよな~。
だから。
やったじゃん。
よかったじゃん。
そうだったじゃん。
――って思った。
顔を合わせていたときに、言ってあげたかったけども、でも、自分が
一番わかっていただろうから。
いや。
まったく。
ホント、われわれの親はまさしく、あの「父」であったね。
※書いてあったのは、この日付どおりなんだけど――なかなか公開ボタンを
押す気になれなかった……。
いまさら半月以上も経ってからの公開です。
13日(水)、いったん稲城に帰ったときに(昼頃かな)、うとうとしながら見た夢。
病院の廊下らしきところに、二人の影。
父と母。
右に父、左に母の後姿。
母は父の左手を取り、付き添っていた。
二人はわたしに背を見せる形で、廊下の先に向かって歩いていたが
父がちょっとだけ振り返って言った。
「おい、踏むなよ。歩けんじゃないか」
どこからつながっていたのか、酸素吸入の長いカニューラ(チューブ)を踏んで
しまっていたらしい。
「あ・ごめん」
踏んだ感覚はなかったんだけど――。
そうすると、母がやさしく笑って、父も満足したように向き直り
母と一緒にまたゆっくり歩きはじめた……というところで目がさめた。
起き抜けに足元に感じた風が気持ちよかったなぁ。(網戸にしていた)
静かな、いい夢だった。
今朝は、最近読んだこの聖句が奇妙に思い出されました。
泣きながらも。
あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。
あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。
――ダニエル12:13(新改訳)
うちの課長代理と面談をしました……。
それぞれ面談する人の長所をたくさん書き連ねているのだと、
ちらっと見せてもらいました。
で、面談する人本人には読み上げるので聞け、と。
それと同じくらいの短所があるわけだと思いつつ、心して
聞きました。
それが自分の思いと合致すれば、そこにがんばれる要素があるわけで、
そうでなくても、人から見た自分が知れるわけで――どちらにせよ
非常にありがたいことではあるなぁと思いつつ、聞きました。
一番最初が、「熱しやすくさめやすい」というもので…………ほほう。
さめやすい、というのはどうなんだろうね、と思いつつも。
↑後日聞いたら「さめにくい」の間違いだったことがわかりました。
ありがたく受け止めた30項目(たぶんそれくらい)でした。
忘れないようにしたいな。
覚えているやつは、書いておこう。
夢を語れる。(うん!)
熱く語る。(うん・・・)
仕事を楽しんでできる。(うん)
仕事が速い。 (でも丁寧じゃないってこともご存知だ)
面倒見がいい。(たぶん、おせっかいだから)
卒業生として学校を愛している。(うん)
お酒が強い。(うん、まぁまぁ)
参謀としての自覚がある。(謎……)
ポーカーフェイスができる。(?)
怒れる。(事態に対して改善ができる、ということだそうだ)
趣味を持っている。(ウン、そうだ!)
クリスチャンの見本。(かなり薄っぺらい見本だ……)
プライベートを楽しんでいる。(ウン、そうだ!)
記憶力がよい。(そうでもないのだが)
学生の名前と顔を覚える。(そうでもないのだが)
プレゼント魔。(そうか?!)
挨拶ができる。
読書をする。
ボキャブラリーがある。
芋づる式。
友達を大事にする。
好奇心がある。
いいところばっかり言われるのって、うれしいもんです。
意外なものもあるけれど、でも、そういうふうに見えることもあるんだろう。。
ありがとうございました♪
賞味期限には、うるさくない。
なので、ふだんは気にしない。
が、こういうときは別である。
4箱セットで買ったもののうち、3箱は2008・11・14、1箱は2008・10・26の賞味期限……。
まだ1年先のものだから、古いとかそういうことではない。
ただ、気になるだけだ。
1箱だけ、なぜちがうのがまざっているのか。
悩んでしまうからやめてほしい……。
つまり「どっちを先に消費すべきか」――という悩みが出てくるので。
新しいもの(というのも抵抗がある)消費するなら11月14日、古いもの(というのにも
抵抗がある)から先に消費するなら10月26日のほうを、となるいのだが……。
11月14日と10月26日の、半月ほどの差は、消費する順序によっては
「鮮度は同じ」ということになるのか??
どういうわけだか、10月26日のほうから開けることにも、11月14日のほうから開けること
にも、迷いとためらいが生じてしまうのである。
ああ。
こういうときこそ、賞味期限なんてものはほんとうにわずらわしい、と感じてしまう。
…………え?
わたしだけ???
自分のものさしで測ってはいけない、とわかってはいる。
でも、これはほんとうに頭の中だけ――って感じ。
ふとしたときには、測ってしまっている。
だから、怒るんだ。
…………ちいさい。
なんてちいさい自分。
そんなことじゃいけないのだと思う。
思うが、やはりイライラしたり怒ったりしてしまう。
たとえば。
何度同じようなことをやっても工夫をしない人は、その仕事を大事に思っていない人
なのだとみなしていた。
これは、ひとつ自分のものさし。
いかんね。
そんな中、工夫やセンスというのは、意外と育つものであるとも思わされた。
「こういうふうにしたら」というよりも、「他人が見たときにわかりやすく工夫して」と
いったときのほうが、見やすいものを作れたりする。
なんだ、やればできるじゃん。
って思ったけれど、できることをやれるように指示してこなかった自分のミスだろう。
それでも――職場以外のところでだけど――工夫をこらすことができない人もいる。
そもそもそれは適性の問題もあるから仕方がない、とも思う。
すべての人が、たとえ意に染まぬ作業でも受け入れることができる、というわけではなく、
工夫をこらすことができるわけではなく、努力したいと願うわけでもない。
しかし! どんなことであれ(仕事であれ趣味の場面であれ)だれもが新しいことについて
最後はがんばろうと決意して臨むに違いない、と考えていたが――。
これも自分のものさしだった。
勝手に思い込んで、信じて、期待する。
だから、その通りにいかなかったら、イライラもするし怒る。当然の結果だね。
反省。
――それでも、先週末あたりからの「憤り」は、ちょっと違うけどね。
まあ。
これは、もう少し落ち着かないと冷静に反省したり分析したりできなさそう(^-^;)。。
実際は明日なのだけれど――よろしければ、お使いくださいということで。
カード仕立て4種類♪
……うーん。。。かるご、やっぱりのんきだなぁ。。。




実家のトイレで突然――数えたくなった。
これまでの人生で、ありがとうを言いたい人。
そして、なににありがとうか、どうしてありがとうなのか、伝えたいなあ。
今日でジュニアチャーチでの最後の日曜日。
これといって感慨深いことは、もはやない。先週、すべてひとくぎりついた気がするから。
いや。
気持ちの上ではもっと前に区切れていたんだ、実は。
モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。
主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。(略)
「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。
わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行く
ことはできない。」 (申命記34:1、4)
この箇所は、数年前からアタマの中にこびりついていて――もちろん自分をモーセになぞらえるのは、
おこがましいというか変な話かもしれないのだけれど、ずっとそういった場面に備えていくのだと思う
ようになっていた。
自分にとって約束の地とはなにか、というと、それはもう長年かかわってきた「ジュニアチャーチ」の
一つの結実、なんだ。
中学生だけの礼拝単位だった時代から、中学生と高校生がひとつの礼拝を守るようになり、
子どもたちが教会の中ではこういうふうに育っていってほしい、と願いながら続いてきたこの15年。
正直言ってしんどかったこともある。
スタッフも毎年微妙な入れ替えがあり、当然子どもたちは一学年ずつ入れ替わっていく。
いいときもあれば、苦しいだけの年もあった。
かるご自身、自分の夢に専心したい思いがあって、どうして自分にはそれができないのかと悩んだ
時期も、もちろんあった。
でも、15年のはじめの時期に、スタッフとの絆や奉仕する喜びを経験していたからこそ、苦痛の時期を
迎えたとき、あえぎながらも乗り越えることができたのだとも思う。
それに、毎年毎年――自分の思い入れとは関係なく――中高生たちから受ける恵みのごほうびという
ものが、必ずあった。
学ばされることは、どんなときでも、どんな場面にも、あった。
そのおかげで、どんな変化の中にあってもやっていけたのだろう。
今年度の「ジュニアチャーチ」はひとつの新しい風が吹いて、その中で動いてきたのだけれど、
そこでかるごができることはほんとうにたいしてなかった。
「だから、去る」――ではなく、「だから、去ってよい」と感じられた。
今年度の「結実」は、子どもたちが自主的に考え、動いたこと――計画し、実行したこと。
そのチームワークを支えたのは、ほかでもない、今年初めて入ったスタッフたちがささげた
時間。
彼らがやりたいこと、願って信じて行動し、そして子どもたちを育て応援してきたことは、
賛美をする喜びを与え、他人に感謝できる心を育てていた。
もちろん、祈ることや教会の仲間と過ごすことの意味を感じ、神に感謝することも忘れず。
それでも、来週からまた一新されて、新しいジュニアチャーチが1からスタートになる。
二度とは同じことは起きない。
今年の恵みは今年のもの。
今年、神さまにささげられた感謝は、今年のもの。
だからといって、まったくもってゼロになるのではない。
あくまで、「1から」。
「在るところから始まる」。
ささげられるものは、すべてささげられて手元には残らないかもしれないけれど、記憶は残る。
来年度も残るスタッフの中には、確実に喜びという貯金があるので――きっとまた
新しい環境の中で、新しいチャレンジをしていけると思う。
信じているよ!
また新しいジュニアチャーチになっていってほしいな。
かるごが15年かけて少しずつ刻み付けられて学んできたこと……。
信頼――仲間。
責任――自分。
感謝――神様。
遅々として、そしてもちろんまだ完成しているわけじゃないけれど、同じテーマをもって
かるごはかるごで次の場所へ向かうことにする。
いってきます!

出勤時に撮った。
朝だから長い影……。
なんとなーく、人の心のありようを感じ、物思うことの多い日々である。
あっという間に、午後。
外へ出たら影も短くなっていることだろう。
日本人的かるごは、結構“判官びいき”でああり――おせっかいでもある。
というわけで、応援歌をおくりたい人たちが何人かいる。
かるごごときのエールがなにになろうか?
でも、それでも。
チャレンジしつづけるひとであってほしい。
自分の願うところを。
信じるところを。
時に孤独――泣きたくなるくらい、仲間がいないと感じるかもしれないけど、
必ずいる。
あらわれる。
信じられる仲間、自分自身を信じられる仲間が。
今日はふとそう思った。
空を見ながら。
生きよう、人生!!
ゆーすけくんにもらった、生徒さんが描いた地図。
クリアケースに入れてみました。
興味津々……?
BAのいつもの方に、寒中見舞いを送りましたらそのお返事の中に――
「昨年はご旅行のお手伝いが出来ず残念でございました。」
はい。
わたくしも残念でございました。
もうチケット担当ではないのですけど――お手伝いしていただけるのでしょうか。
だとするならば、とてもうれしいことです。
「今年はご旅行をお手伝いさせて頂きます。
ご旅行のご日程が決まりましたらばご連絡願います。」
うーん。
ホント、こういう一言で「お世話になりたいなぁ」と思ってしまうのは、のせられすぎ?
浅いですかね?
今年、最初の(!)一回目は残念ながら、なんだけど――あともう一度チャンスが
めぐってくることを、心から願っております。
これで終わるものか!!(わけのわからない不屈の精神&闘志)
ともかく、お元気にお勤めくださっているとわかって、なによりうれしかったりするのだ♪
ありがとうございました!!
ちびぽんずの年末年始ご挨拶バージョン、掲載しました。。。。
ぶろぐでは年頭所感が遅れまして失礼をば――。
本年もどうぞよろしく、よしなにお願いいたします。
いろいろもらっているのだが――なかなか写真を撮っていなくてね。
すらいむばっかり撮っていたら、食指がへんなところで動くように……(^^;
これはちゃんと撮ってみた!!
りんちゃんにもらったボールペン。
かわいいよね~。アタマのぐらぐら加減と、キャップ。

朝、多摩センターの駅前ですれ違う目の不自由な方と、
夜、新宿駅の地下通路ですれ違った。
新宿駅地下通路を歩いていて、
だれかにぶつかられて一度ひざをついて転んでしまった女性が、
足早にわたしを追い抜いていった。
ビルにはいって、目的の階のトイレに入ろうとしたら
さっき追い抜いて行ったその彼女が出てきた。
トイレを出てちょっと振り返ったら、
美人未亡人・官房こと、みさおちゃんがいた。
奇遇~~~と思ったと同時に、思った。
今日はいったい何の日?!どんな日?!
――まちがいなく、ややびっくり、ちょいびっくり、おおいにびっくりの日だった。
いやぁ、おもしろいねぇ。
おおいにびっくりな顛末については、また今度。
別に女性に限らなくてもいいのだけど――より「美観」に影響があるのは女性かな?と――。
目くじら立てて反対するわけではないけど、うつくしく・すてきに吸う人を見たことがない。
いるのかもしれないけれど、知らない。
だいたい目にするのは、なにかいやなものを吐き捨てるかのように――目を
細めて、不満げに口を突き出しながら煙を出している姿なのだよね。
ストレス解消でもあろうから、仕方ないのかな?表情は・・・。
あるいはどのくらい吸ったのか、においを残して――しみついたままの髪・服・口で
話しに来られるのは、結構しんどい。
むせかえってしまう。
香水もニガテだけど、ヤニ臭はもっとむずかしい。
単に自分がノンスモーカーだから、なのかもしれないのだが…………結構キツイ。
ま・おいしそうに吸っているひとを見たら、少しは変わるのかもしれないけどね……。
えーと。
ソフトバンクショップ。
いったよ。
委任状もってさ。
しかーーーし!
教会帰りにと途中下車した中央林間――はじめはお散歩気分でてくてく出かけたが、ナント21人待ち!
さすがに断念。。。。
座る場所も、居場所もないくらいであったからね~~。
てろてろ駅に戻りながら、今日も寒いし、そこまでして今日中に必要か?!って思いはじめてきたけれど――がんばって多摩に行くことにした。
最悪、今日受け取れなくても、仕事帰りに寄れるもん。
しかーーーーーし!
中央林間ほどじゃないにしても、こちらはこちらでいったい何人待ちなのかわからない。。。
番号札だけがきちんと「お取りください」と待っている。
結局のところ、30分待ちで思ったほどスムーズだったけれど……。
で。
残念ながら、見ていただいても原因がわからず。
しかも、この状態では「データ復旧はムリ」との判断。
あきらめてはいたが、うーん、なににがっかりなのか自分でもわからない。
すらいむ画像はSDに入っているからいーや・・・
あ・やっぱ電話とかアドレスのデータだよね。
いかん。
そんな当たり前のことに真っ先に気づけない。
麻痺してる。。。
次に。
機種変更自体はできるというのだが、変更したい機種の在庫がなく。
周囲の便を考えたら、在る中から選べ、なんだけど――SHARP製以外使う気しないから仕方ないのよ。
これくらいはこだわらせてよ。たいしたこだわりじゃないんだから。
あー。
でも、こういうのが一番、困っちゃうよね。
んでもって、わたしが携帯持たなかったら、意外と困っちゃっている人もいるのよ。
結局、別店舗に在庫確認してもらうことにした。
自分の行動範囲がいいもんね、と6店舗挙げたうち、ほとんど電話もつながらない状態であったよ。。。。
そうだよね。
お――成城にはある!と判明した。
はぁ~~、一安心。
納得大満足とはいかないが、とりあえずはホッ。
ただ、今日はもうエネルギー切れ。
明日仕事帰りに行きますと伝えて、取り置きお願いしたさ。
てことで。
意外と困っている人が、いるに違いないのだけれど――――ゆるしてください。
もう、さすがに疲れました。
そして、明日以降「メアドだけ」PCにも登録してある人には、
「電話番号教えて~~」とお願いにあがる予定です。
その折にはどーぞよろしくです。
天国を見たことはない。(あたりまえだけど)
でも、先生は行っている。先に。
小さい頃から「教会学校の先生」として、校長先生であり――自分も教会学校で奉仕をする
ようになってからは、学びをしてくださって――同じ科で奉仕をする仲間となる機会を得た先生が、
亡くなった。
今日は前夜式だった(キリスト教式では通夜とは言わない)。
わたしが学生の時分には、沢登りの先頭をゆき、ハイキングなどをさくさくこなされていたし、
一緒に奉仕をするようになってからも、「歩くのが好きなんです」とよく歩いてお帰りになっていた。
なにより、本の虫。
たくさんの本の話を、うれしそうにしてくださったのが印象的で。
礼拝メッセージでも、普段の会話の中でも。
奉仕を退かれてから、そして数年前からは入院されていたので、お会いする機会もほとんどなかった。
だから……亡くなった先生の、元気だった頃のイメージしかない。
…………それでよいのかもしれない。
と、またそういうふうに言うのは、自分を納得させるためでもあろうが。
帰りがけに、飾られた写真数点を見た。
ご自宅での1枚をのぞいては、「わたしの知らない、若い頃の先生」の写真だったけれど――
先生の人生にまばゆさを感じる断片たちだった。
この世に、必要だった。
90歳。
たくさんの足あとを残している。
出口で、お久しぶりに奥様とお顔を合わせてご挨拶をして、「お元気ですか」と逆に声をかけられ、
ぽろろっとにじんできた。
涙は、突発的だ。
ただ、それでも、これで終わりではない。
そう。
「永眠」って言わないんだよね、「召天」。
終わりが続くのではない、区切りなんだ。
「死」を越えて。
まちがいなく、すらいむである。
おかげさまで、これで和んでくださる方がいる。増えたね。
ありがとうございます。
冷ややかな思いでごらんになっている方もいるかもしれない。
けど――――ま・いいや。
かるごのリハビリ。みんなの和み…………それでいいじゃんか。(開き直り)
てことで。
今夜の手慰みの結果、このように仕上がりました。
遊興日記以前は、前にアップしたやつですが。
ま・重複の段はおゆるしください。
ちびぽんずお遊び徒然
最近、人身事故が多い。
年末とか年度末とか、春先とか……そういう頃だったような気もするし、路線も
失礼ながら中央線が多かったと思うのだけれども。
そうでもなくなっているような?
自分が乗る電車に影響することが、この3週間で3回。
週に一度、多少なりとも「被害」をこうむっている。
まぁ、「被害」といえるほどの切羽詰った状況ではないのだが――さすがに人との
約束に間に合わないとなるとハラハラしちゃう。
それは、人身事故の影響であろうとなかろうと、そうなんだけど……そういう意味では
携帯電話やメールが普及してきているのはありがたいのかもしれない。
なんて思っていたこのごろであったのだが、今月三度目の「人身事故ニュース」で
乗るべき電車に乗れないことがわかったゆうべ――――。
巣鴨から早く帰りたいのに。
つい3分前に「全線ストップしました」とアナウンス。
改札内の精算所が、異様に混んでいると思ったら、そういうことか。
うーん。
三田線で神保町乗り換えで帰ることにしたのだが、早く帰りたい疲れのときに限って
これだ。
巣鴨のスタッフに「また人身事故。最近のわたしはなんなんでしょう」ってメール送ったら、
「ゆっくり動けってことかも」って返事がきた。
え~、ひとに言われるほどわたしは忙しくないし、生き急いでもいないのに――って思った。
まわりの人が、生き急いでいるだけなのに、って。
でも………………そう思いながら、ふっと気付いた。
そうだ。
たぶん、ほんとに「ゆっくり動け」っていうメッセージなのだ。
そもそも、かたつむり人生ではないか。
それなのに、最近はどうだろう?
いや、大きな目で見たらやっぱりかたつむり人生ではある。
でも…………そういえば、ゆとりがなくなっていて、かたつむりペースを
崩しているのかも、と思い当たった。
というのは、いままでは電車は遠回りでも苦にならなかったし、むしろ
そういう遠回りになった時間を楽しんでいたんだよね。
今も、特急よりは各駅停車のほうが好きだし、座ってのんびり本を読む時間を
確保するために、1本早い電車に乗ることを心がけてはいる。
が、しかし。
時間のために、特急で移動することも多くなったし、できるだけ早く移動するためには
と考えることも多くなった。
どちらも無駄ではない。
が、どちらがかるごらしいかというと、やっぱり前者なんだよね。
自分の時間を確保できるゆとりをつくって乗るほう。
なのに、なんかセカセカしていないか?最近のわたし?
早回しにしたところで、なにかあとにゆとりを生み出せているかというと、そうでもない。
早くやってもそれだけ先にどんどんつまってくるので、生み出すはずのゆとりは
ほんとうに最後の最後になっている。
最後の最後になるゆとりは、心を解き放つだけではなく疲労を解き放つので、結局は
心が戻ってこない「休息」で終わってしまう………………。
あぁ、そういう意味ではほんとうに、「ゆっくり動け」なんだ。
時間を味わえ。
楽しめ。
最近は少なかったね。
いもーとちゃん(Nardyさん)に、
「最近は人のためばかりで、自分自身を大事にする
時間が足りなさそうに見えるけど、すらいむ以外にリラックス
することはできているかいのぅ? 」
とメッセージをもらったのだが――――たしかにね。
わたしらしさの回復は、やっぱり遅れているのだろう。
ちょっと前に、夫ぎみにも言われた。
「ちょっとは充電するんだけど、その倍以上消耗しているから、
結果的にリフレッシュしていない」
言われたときはあんまりピンとこなかった。実感がなかった。
でも。
そういうことなんだと思う。
夫ぎみにもNardyさんにも、巣鴨のスタッフにも、ありがとう。
ひとつひとつのメッセージが、つながってきたのだね。
昨日の山手線の人身事故のおかげで、あらためて近頃の自分が「省いているもの」に
はっきり気付かされて――自分が大事にしてきたものを、再確認。
かるごはやっぱり、「ゆっくりだけど歩いている」人生でありたい。
ちょっと息をつこう。
――最近、すらいむ画像を加工するのが、ストレス発散になっているようだ。
てなわけで、またアップしてしまった……なにやってんだ?わたし???
って感じだけど、忙しくなるときほど、現実逃避的なアソビや趣味、作業を
やりたくなっちゃうものだよね。(共感を求めてみたりしようか)
帰ってからの時間、日々ちまちまと加工しては保存……そしてまとめてストーリー。
そんなことをやっている今日この頃の夜中である。
ま・気力体力があって、脱力を求めるすべてのふろく・かるごわーるど読者さんにささげます。。。
気持ちのよい空のおかげで、心がすっきりする。
今日も一日、いろーんなことがあるだろうけれども、でも、
今朝うれしくて撮ったこのひとこまで、すがすがしくなった気分を
思い出せるようでありたいな。

すらいむギャラリー更新に執心しているこのごろですが――
みなさまからリクエストが強かった多摩フェス編、ようやくアップできました。
これもまた、ささやかに心の和みになることを祈りつつ。
中高学園祭(番外編)、ちょこっとだけ付け足しました♪
ま・そこそこ和み、ってとこでしょうか。。。。
http://www.karugo.com/nonkigallery6.htm#2
こんな景色が日本にもあったのだ、というような夢を見た。
そう。
ジャイアンツコーズウェイと同じ六角柱の並ぶ海岸へ、
カメラを向けている夢だった。
ファインダーにおさまったその風景は懐かしくて、そして
心が透くようなすがすがしい寒さの中にあった。
すごい。
いつ来たのかわからない場所だったけれど、感動して
気持ちよく写真におさめて――幸せな気分を味わって…………。
目が覚めた。
中高生の賛美で元気付けられたかるごまるは、昨日いっきに1.5日分の
すらいむたちの活動風景をアップしてみました。
ちびぽんずとでかぽん
http://www.karugo.com/nonkigallery5.htm#1
ちびぽんずと学園祭(その1)
http://www.karugo.com/nonkigallery6.htm
こんな感じです。
まだ以下続刊予定。
たしかに、刈り終わったあとは、まるで散髪後の爽快感が……気持ちいいもんです。
アレルギーが出てしまうひともいるのでしょうが、芝の刈られるときのにおい、なんか
記憶がくすぐられる。
なんだろうなぁ。
http://www.karugo.com/nonkigallery5.htm
タイトルバーを修正するのを忘れておりました。
夜中に作った和みページ。
きのうの夜、洗濯機の蛇口水もれに四苦八苦していたら――こればっかりは
なかなか(株)自画自賛でも難しい――手がひどい色になった。
どこの、なんの色なのか。
赤紫色、青、緑色。
ん~~~? なんかの色落ち?と思って手を洗っていたのだけれど、出自は不明のまま。
で、今朝。
出勤してから気付く自分のボンヤリ加減もどうかと思うが、自分の着てきたシャツブラウス、
肘のちょうど内側(折れるとこ)に、同じような配色が――。
出勤してから気付く間抜けぶり。
どれだけボンヤリしていたんだ?
模様まで!ケルト模様のように見える。。。
――――ショックだ…………。
しかし、いったい、どこでついちゃったんだろう???????
ふと、電車の中で気付いた。
今「網棚」っていわないんだ~(少なくとも京王線では)。
「荷棚」ってなっていた。
あ、そういや「下駄箱」っていうのも、下の世代では言わなくなっているのかも。
「靴箱」?「下足箱」?
ボキャブラリーが貧困と言われる時代のわりには、「正しく表す」名称に変えて
いって増えているような……と思ったが、考えてみれば、その代わりに「消えていく」
ことばがあるから、どちらの割合が多いかによって、変わるか。
そういえば、小学校とか中学校の靴を脱ぎ履きするところ、「昇降口」って呼んでいたけど、
今はどうなんだろう?
考えてみれば、不思議な感じのすることばだ。
「昇降」するのは生徒だよね。。。
辞書には「大きな建物の出入り口」ってある――じゃぁ、まだ言われているかな?
うつくしい朝を台無しにするのは、ひとの心ばえ。
そのひとの、うつくしくない不満ごとが、明るい空を曇らせる。
澄んだ空気をにごらせる。
気をつけなければ。
眉間に寄せられるそのシワは、自分の眉間にもあるかもしれない。
1泊2日の、中高生との修養会をすごしながら、つれづれ……。
ここ数年、かるごまるは実は、教会学校からの去り際ってやつを見極めていたりする。
一番の理由は、長くやりすぎた、ってこともある。
自分の心の限界を感じていることが大きい。
これまで、中高生の可能性や成長の過程をまざまざと見られることは、ほんとうに
楽しかったし、うれしかった。
今、それに魅力を感じていないわけではないけれど、気持ちが少しくたびれてきて
しまった。
中高生たちのせいではなく、自分自身の問題だ。
彼らのためにじゅうぶんな時間と心とを使ってあげられることが、少なくなってきて
しまったのだ。
これは、わかっていても、どうしようもないところである。
はじめは「仕事のためでもないし、自分の趣味に生きるスタイルのためでもない、なにか
別の理由がある」と思っていたが、いやいや、そうではないかもしれない。
結局のところは、やはり「自分のために生きる」ため、そのせいで心の配分が削られて
しまっているのだろう。
みんな、ごめんよ。
昔どおりのやり方でできること、できないこと、いろいろな形を変えて対応してきたつもりでは
あったが、自分自身の限界を感じることが多くなってきた。
中高生と付き合うことに。
中高生の「今」に、対応していくことに。
中高生の「必要」に敏感に応じることに。
どのように、付き合っていけばよいのか――自分の持っているものが果たして彼らのために
どう使えるのか、わからなくなってきている。
もちろん、わたしひとりでできることでもないし、仲間がいてこそできることもある。
が、その仲間にとって、果たして有益な存在かどうかもあやしい。
――今年は、スタッフも入れ替えがあって、一新されたことも大きい。
そのメンバーの中でやっている今、いよいよ来年はかるごがいなくても大丈夫だろうと
思えるようになってきたから。
そういう言い方はおこがましいのだけれども、でも、正直なところそうなのだ。
ぜんぶ任せて大丈夫、というのとはちょっと違うのだけど、不安が残るのはあくまで
「事務連絡」レベルの問題で、対中高生についての彼らの力はとても大きくて、不可欠の
ものとして、お任せして大丈夫と信じられる。
子どもたちのために生かされている個々人の能力は、与えるばかりではない。
逆に刺激を受けてさらに発展する可能性があって、それがまた、子どもたちに影響を与えて
いく……――プラスのサイクルがある。
自分はと振り返ると、そういうサイクルをつくる「彼ら」が現れて、担ってくれるためのツナギ
だったと実感する。
こういう状況は、とてもありがたく、そしてうれしい。
生きていく営みはなんでも、「引き継いでいくこと」が究極の目標と思う。
命をつなぐことも、仕事や伝統……――。
ひとつの志を、どのように、なにによってつなぐのか。
去り際。
きちんと見極められる目がほしいと常々思ってきたが、来年3月はいよいよ「そのとき」を
迎えることになりそうだ。
ありがとう。
昨日、派遣Kさんにせがまれて(?)撮った写真が、とてもかわいいので。
またお遊びにするかもしれないけれど――いちおう載せちゃう。
これを見て、和むことにしよう………………。

先週の水曜日から金曜日、感情をコントロールするのがどれほど難しいかを
思い知らされた。
痛み。
怒り。
哀しみ。
口惜しさ。
こういった感情は、自分勝手な定規で測られていることが往々にしてあるから、
気をつけなくちゃと思っている。
楽しいこと、嬉しいこと、喜ばしいことは問題になることは少ないだろうけれど、
マイナスの感情は違う。
相手を巻き込んで不愉快にさせてしまう危険もあるし、自分が責任をもつべき
ことをおろそかにしてしまうおそれもある。
しかも、自分のことではないから、まったくお門違い、筋違いといわれたら、
たしかにそうかもしれないようなこと。
それだけに、自分のやっている仕事、一緒に仕事をしている人たちに影響を
与えることなく、そういう感情を抑えるには、どうしたらいいのか――と。
祈るしかないとわかっていながらも、なかなかできない。
でも、そこにしかほんとうの道はないのだろうなぁ、とかぐるぐる。。。
そんなことを考えながら、それでもこらえられないような口惜しさをかかえての
先週後半だった――。
それが、たまたま派遣さんのリクエストにこたえて、スライムたちを連れていって、
はべらせながら仕事をしていた時期と重なった。
ほんとうに。
のんきな顔でねえ。
やつらを見ているだけで、ほろっと泣きたくなってしまう。
「泣く」ことにはひとつの浄化作用があるとは思うけれど、それで浄化しきらないものが
今回の一件にはあって。
あきらめずに祈るしかないね、それでも……と、まぁそんな感じで、いろいろな諦めと
反省とをかかえつつも、なかなかおさまらない感情。
完全な解決にはなかなか至らない。
というわけで――現実逃避的にKさんのリクエストページを作成する準備をしている中、
こんなカードも作ってみた。(MIXIではトップのページ写真に替えたやつ)
気持ちを切り替える、ひとつの心がけ。

のんきものがかるごのよいところだからね♪
今日、たっぷり休んでリフレッシュして――明日を迎えるよ♪
そうそう。
のんきついでに、こちらも更新できたわけだ。Kさんリクエスト企画ページ。
自制心も必要だとはわかっているのに――そして、受け入れることが大事だと
思っているのに、どうしても不満のようなものがうずまいてしまう自分のココロ。
ここでも2行で不満をもらしてしまったけれども、MIXIでも書いてしまった。
本来、そこはノウテンキなことばかりを載せようと決めていた場所だったのに、
どうにも納得がいかず――噴火寸前のかなしみ・むなしさ・怒りのないまぜに
なった心を2行日記にしてしまった。
そのあと、なんともいえない後味の悪さを感じていたのだけれど――削除するのも
変な気がして、削除しなかった。
ここのトピックも同じくそのまま。
どんなに醜くても、やはりそれは、かるごの一部分であることに変わりがないから。
いったん明らかにしてしまったから、いまさら隠すのも姑息に思えたから。
ただ、ことばというのは、やはり良くも悪くも「力」がある……ってぐるぐる考えながら
仕事を続けることになって…………地味地味と、じわじわと反省。
自分だって同じだと、同じことをやらかしているじゃないかと、いつも言い聞かせてはいるのだが
――なにかことばを発する前に、その批判は「批判」ではなくて「醜い悪口」ではないかと、気を
つけなければと思っているのに。
どうして忘れてしまうのだろう?
ああ…………そうか。
学習能力がないのだなあ。
そしたら――MIXIのほうで、「いま祈りました」とコメントを寄せてくださったクリスチャンの友人がいて。
その瞬間、ふっと気が抜けたような感じになった。
ほんとに、ことばとしてふさわしくないかもしれないけれど、“慰められた”んだよね。
また、クリスチャンではない方もコメントをくださり、さらにカトリックのクリスチャンの友人(その方に
失礼でないならば)も祈ってくださったコメントをいただいて。
反省というだけでなく、奇妙な安堵感を得られてしまい――。
祈りの力。
ありがとう。
心新たに、明日を迎えようと帰ったゆうべ――そして、今朝もまたあらためて心新たに、と願い
賛美歌21の210番のシンプルなことばを思い返したところ。
怒りや不満を忘れることができるように、自分でも祈るよ。
ほんとうに、みなさま、ありがとう。
もうすぐ終わろうとしているこの日。
かるごはその当時、アイルランドはエニスという町を旅行中。
昼間はうろうろしていたため、ニュースを知ったのは夜、パブで飲んでいたときだった。
それも、あまりにも遠い話で――さっぱり実感として得られなかった。
てっきり映画のCMで、アイルランドのTVらしく(?)同じCMや番組ばかりを流して
いるのだとさえ思った。
おまけに、アイルランド人たちも「同じ映像ばかりだ」と嘆いている。
親身に事件を感じている人は、パブには集まっていなかったということなのか?
どういうことか、今でもわからないけれども。
でも、後から押し寄せてくるショック――衝撃はたしかにあったな。
じわじわじわと足元がすくわれるような、そういうスローモーションな恐怖に似たなにか。
WTCがなくなるなんて、想像つかなかった。
飛行機が多くの乗客を乗せたまま、ただ破壊のためだけの道具になるなんて、現実とは
思えなかった。
湾岸戦争を中継で見たときの、気まずさみたいな気持ちも入り混じっていて、見てはいけない
ものを見ている(傍観している)気もしてきた。
当事者たちの衝撃と傷は、はかりしれない――想像もつかない、暗い闇。
当時、アイルランドはやけにうつくしい晴れつづきだったし、充実していた時間を過ごせた。
そう。
それはそれとして、その時間の価値には変わりがないけれど、あのとき、まったくの他所事
として見ていた自分を恥じる気持ちは、ずっと残っている。
悼む思いも、年を追うごとに――大きくjなって。
最近迷惑なコメントが山のように来るので、一応保留にしてから削除しまくって
いるのですが…………ここ最近の、いくつかのコメントも間違えて消しちゃいました。。。
かんぼーからのが消えてしまった★★
ごめんなさい・・・・・ほんとうに。
なので、しばらく、コメント欄はいったんこちらでチェックしてからOPENにするという形に
しまーす。